1240年、テンプル騎士団はパリの城壁のすぐ外側、マレ地区の北部に要塞化された教会を建設しました。その後、この教会(「寺院地区(Temple Quarter)」とも呼ばれました)の近くには多くの宗教施設が建てられました。これらには、ブラン・マントー修道院(Blancs-Manteaux)、サント・クロワ・ド・ラ・ブルトヌリ修道院(Sainte-Croix-de-la-Bretonnerie)、カルム・ビレット修道院(Carmes-Billettes)、およびサント・カトリーヌ・デュ・ヴァル・デ・ゼコリエール教会(Sainte-Catherine-du-Val-des-Écoliers)が含まれます。
13世紀半ば、ナポリ王とシチリア王であり、フランス王ルイ9世の末弟であるアンジュー公シャルル1世(Charles I、1227年3月21日生~1285年1月7日没)が、現在のセヴィニエ通り7番地(7, Rue de Sévigné)の近くに邸宅を建てました。1361年、ヴァロワ朝フランス王国 第3代王シャルル5世(Charles V, 1338年1月21日生~1380年9月16日没、在位:1364年~1380年、別名:賢明王)はサン・ポル館(Hôtel Saint-Pol)として知られる邸宅を建設し、シャルル5世の治世中(および息子の治世中)はそこに王室が居住しました。
その頃から 17世紀にかけて、特に 1605年にブルボン朝フランス王国の初代王アンリ 4世(Henry IV、1553年12月13日生~1610年5月14日没、在位:1589年8月2日~1610年5月14日)の統治下で王宮広場(ロワイヤル広場、現在のヴォージュ広場)が設計されてからは、マレ地区はフランス貴族の好む居住地区となりました。彼らがそこに建てた数多くの都市の邸宅(フランス語で「オテル・パルティキュリエ(Hôtels Particuliers)」)の中には、サンス邸(Hôtel de Sens)、シュリー邸(Hôtel de Sully)、ボーヴェ邸(Hôtel de Beauvais)、カルナヴァレ邸(Hôtel Carnavalet)、ゲネゴー邸(Hôtel de Guénégaud)、スービーズ邸(Hôtel de Soubise)などがありました。
18世紀後半には、この地区は貴族の間ではもはや最もおしゃれな地区とはみなされなくなりましましたが、それでも貴族の地域としての評判は依然として残っていました。当時、そこに住んでいたのは、下級貴族とスービーズ公などの少数の高位貴族だけとなっていました。ヴォージュ広場は貴族たちが集まる場所であり続けました。この地区はフランス革命後に荒廃し、貴族によって完全に放棄されました。このマレ地区は 20世紀後半まで流行から取り残されさびれた地区として残されていました。
マレ地区地図(Map of Le Marais, Paris, Île-de-France, France)
地図サイズ:640ピクセル X 640ピクセル
マレ地区の交通機関と観光名所およびホテル
マレ地区の交通機関
オテル・ド・ヴィル地下鉄駅 / Hôtel de Ville:パリ・メトロ(地下鉄)1/11号線、マレ地区南西隅