オテル・ド・ヴィル(パリ市庁舎、フランス語:Hôtel de Ville)は、フランスの首都パリの市庁舎で、4区のオテル・ド・ヴィル広場=解放広場(Place de l'Hôtel-de-Ville – Esplanade de la Libération)東面に建っています。南翼はもともとヴァロワ朝第9代のフランス王フランソワ1世(Francis I、1494年9月12日生~1547年3月31日没、在位:1515年~1547年)によって1535年から 1551年にかけて建設されました。北翼はブルボン朝フランス王国の初代王アンリ 4世(Henry IV、1553年12月13日生~1610年5月14日没、在位:1589年8月2日~1610年5月14日)とブルボン朝フランス王国の第2代王ルイ13世(Louis XIII、1601年9月27日生~1643年5月14日没)、在位:1610年5月14日~1643年5月14日)によって1605年から 1628年の間に建設されました。1871年5月、パリ・コミューンの最後の日々である聖週間に、この建物はパリ・コミューンによって焼かれ、その中にあった市の文書もすべて焼失しました。1874年から 1882年にかけて、外観は当初の設計に倣い、より大規模に再建され、内部も大幅に改修されました。1357年以来、パリ市の本部となっています。地方自治体の議会、1977年以来パリ市長とその内閣の所在地として、また大規模なレセプションの会場として、多目的に使用されています。1975年にフランス政府によって歴史的建造物に指定されました。この19世紀後半に再建された建築物は「パリのセーヌ河岸(Paris, Banks of the Seine)」の構成要素の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録(1991年)されています。
1357年7月、パリの商人代議士(市長)であったエティエンヌ・マルセル(Étienne Marcel)は、緩やかな傾斜の砂利浜にある、いわゆる「柱の家」を自治体の名義で購入しました。この場所は小麦や木材を荷降ろしする河川港として機能し、後に「ストランド広場」と呼ばれる広場に統合され、パリ市民が特に公開処刑のために集まる場所となりました。1357年以来、パリ市の行政機関は、現在パリ市庁舎が建っているのと同じ場所に置かれています。1357年以前、市の行政はシャトレ近くのいわゆる「parloir aux bourgeois(市民の居間)」に置かれていました。
1533年、フランソワ1世は、当時ヨーロッパとキリスト教世界最大の都市であったパリの首都にふさわしい市庁舎を建設することを決定しました。彼は、赤いひげからボッカドールと呼ばれたイタリア人のドミニク・ド・コルトーネとフランス人のピエール・シャンビージュという二人の建築家を任命しました。柱の家は取り壊され、ルネッサンスの精神を重視していたボッカドールは、高くて広くて、光に満ち、洗練された建物の設計図を描きました。建築工事はルイ13世の治世中の 1628年になって漸く完成しました。
その後の 2世紀の間、フランス革命中のいくつかの有名な出来事の舞台となったこの建物には何の変化も加えられませんでした。1789年7月14日、商人の最後の市長ジャック・ド・フレセルが怒った群衆によって殺害されました。革命期の恐怖政治の時には 1794年7月27日、マクシミリアン・ロベスピエール(Maximilien Robespierre)はクーデター(テルミドール9日)後にパリ市庁舎で自殺を図り、支持者とともに逮捕されました。
パリ市庁舎地図(Map of Hôtel de Ville, Le Marais, Paris, Île-de-France, France)
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パリ市庁舎への最寄り交通機関は、パリ・メトロ(地下鉄)1/11号線 オテル・ド・ヴィル地下鉄駅(Hôtel de Ville)、バスでは 67/72/76/96/N11番 リヴォリ通りにあるオテル・ド・ヴィル バス停(Hôtel de Ville)、70/N11番 ヴィクトリア通りにあるオテル・ド・ヴィル バス停があります。