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バスティーユ広場


 バスティーユ広場(フランス語:Place de la Bastille)は、フランスの首都パリ中心部 4区11区および12区に跨る広場です。フランス革命中の 1789年7月14日から 1790年7月14日の間にバスティーユ監獄が襲撃され、その後物理的に破壊されるまで、かつてバスティーユ監獄があった場所に造られた広場です。監獄の痕跡は全く残っていません。
 この広場はパリの 4区、11区、12区の 3つの区にまたがっています。広場とその周辺地域は通常、単に「バスティーユ(Bastille)」と呼ばれています。フランス7月革命(1830年7月27日~29日)の出来事を記念する青銅製の 7月革命記念柱(Colonne de Juillet)が広場の中央に立っています。その他の注目すべきものとしては、広場東面にオペラ・バスティーユ(Opéra Bastille、バスティーユ・オペラ座)、バスティーユ地下鉄駅、広場の南面にあるサン・マルタン運河(セーヌ川へ繋がる運河)の一部などが挙げられます。1984年以前、現在オペラハウスが建っている場所には、かつてのバスティーユ駅がありました。
 この広場ではコンサートなどのイベントが開催されます。バスティーユの北東エリアは、多くのカフェ、バー、ナイトクラブ、コンサートホールがあり、夜は賑わいます。その歴史的重要性から、この広場は 2006年3月28日の大規模なCPE反対デモ(CPE = 初期雇用契約、26歳未満の若者の雇用にあたり、試用期間をこれまでの3か月から2年間と長くし解雇を容易にする法案、反対運動により法案は撤回)を含め、政治デモの会場や出発点となることが多いです。
 
 現在のバスティーユ広場は、かつてのバスティーユ要塞(元々は1357年から建築開始された要塞であり、1659年以降は牢獄となり、1789年のフランス革命発生時に民衆により襲撃された「バスティーユ襲撃」で知られ、革命後の1806年までに完全に解体の跡地にあります。7月記念柱に加えて、オペラ・バスティーユもここにあります。かつての要塞の背後にある大きな溝(濠跡)は、バスティーユ大通りに隣接する南側のアルスナール湾という遊覧船用のマリーナに改造されました。北側には、サン・マルタン運河という屋根付きの運河が、要塞の境界にある自動車用ロータリーの下のマリーナから北に伸び、スターリングラード攻防戦広場(Place de la Bataille-de-Stalingrad)まで約 4.4キロメートル続いています。
 木曜日と日曜日には、バスティーユ広場の北、リシャール・ルノワール通り(Boulevard Richard-Lenoir)沿いの公園の一部で大規模な屋外市場が開かれます。消費者は、衣料品や典型的なフリーマーケットの品物のほか、新鮮な果物、魚、肉、チーズ、パンを買うことができます。
 1899年にメトロ(鉄道大量輸送システム)の掘削作業中に、砦の塔の 1つに残っていた未破壊の残骸が発見され、数百メートル離れた公園(アンリ・ガリ広場(Square Henri-Galli))に移され、現在はそこに展示されています。砦の元々の輪郭は、砦のあった場所を通る通りや小道の舗装にも、特別な敷石の形で刻まれています。要塞の場所にはほとんどカフェといくつかの他の商店が建っており、サン・アントワーヌ通り(Rue Saint-Antoine)が要塞の真上を通ってバスティーユのロータリーに通じています。
 
バスティーユ広場地図(Map of Place de la Bastille, Paris, Île-de-France, France)
パリ バスティーユ広場地図
地図サイズ:720ピクセル X 580ピクセル
 
 バスティーユ広場への交通機関は、パリ・メトロ(地下鉄)1/5/8号線 バスティーユ地下鉄駅(Bastille)、バスでは 29/87/91/NO2/N11/N16番 バスティーユ・バス停(Bastille)などがあります。
 
マレ地区におけるバスティーユ広場の場所が判る地図
マレ地区 バスティーユ広場地図
地図サイズ:640ピクセル X 520ピクセル
 
バスティーユ広場地図(Google Map)
 

 
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