コンコルド広場(フランス語:Place de la Concorde、直訳すると「調和の広場」という意味)は、フランスの首都パリにある公共広場です。面積は 7.6ヘクタール(19エーカー、長さ 359メートル(1,178フィート)、幅 212メートル(696フィート))で、フランスの首都で最大の広場です。市内8区、シャンゼリゼ通りの東端に位置しています。セーヌ川右岸(北岸)に面する広場で、東にはチュイルリー庭園(Jardin des Tuileries)とオランジュリー美術館(Musée de l'Orangerie)、西にはシャンゼリゼ通りが延び、南はセーヌ川が流れコンコルド橋(Pont de la Concorde)、北はロワイヤル通り(Rue Royale)を経てマドレーヌ寺院(Église de la Madeleine)があります。「パリのセーヌ河岸(Paris, Banks of the Seine)」の構成要素の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録(1991年)されています。
フランス革命の過程で、コンピエーニュのカルメル会殉教者、ルイ16世(Louis XVI)、マリー・アントワネット(Marie Antoinette、ルイ16世の王妃)、マクシミリアン・ロベスピエール(Maximilien Robespierre、恐怖政治期の独裁者)など、多くの有名な公開処刑が行われた場所です。当初「ルイ15世広場(Place Louis XV)と呼ばれ、この間、広場は一時的に革命広場(Place de la Révolution)と改名されました。革命後期の和解のしるしとして、1795年に現在の名称が付けられました。コンコルド広場の北東の角には、パリメトロの 1、8、12号線のコンコルド地下鉄駅があります。
シャンゼリゼ通りにおけるコンコルド広場の場所が判る地図(Map of Place de la Concorde, Paris, France)
地図サイズ:640ピクセル X 480ピクセル
1789年以降、この広場はフランス革命の舞台の中心となりました。1789年7月13日、暴徒がオテル・ドゥ・ラ・マリン(海軍本部)に押し寄せ、武器庫から古い大砲 2門を奪い取りました。この大砲はシャム王から贈られたもので、1789年7月14日のバスティーユ襲撃で最初の砲弾を放ちました。1792年8月11日、ルイ 15世の像は引き倒され、鋳造所に運ばれて溶かされました。数か月後、彫刻家フランソワ・フレデリック・ルモによる新しい像「自由」が、その場所に建てられました。この像は赤い自由の帽子をかぶり、槍を持った人物像です。革命期に、ルイ 15世広場は革命広場と改名されました。
1792年10月、この広場で最初のギロチン処刑が行われました。処刑された2人は、オテル・ド・ラ・マリンから王冠のダイヤモンドを盗んだ泥棒でした。1793年1月21日、ルイ16世がここで処刑され、同年10月16日にはマリー・アントワネット王妃が処刑されました。恐怖政治が始まると、1793年5月11日、自由の女神像とチュイルリー庭園入口の回転橋の中間にギロチンが再び設置され、13か月間そのまま置かれました。革命中にパリでギロチンで処刑された2,498人のうち、1,119人がコンコルド広場で、73人がバスティーユ広場(Place de la Bastille)で、1,306人がナシオン広場(Place de la Nation)で処刑されました。ルイ16世とマリー・アントワネットの他に、シャルロット・コルデー(Charlotte Corday)やデュ・バリー夫人(Madame du Barry)も同じ場所で処刑されました。1794年の恐怖政治の末期には、ジョルジュ・ダントン(Georges Danton)、カミーユ・デムーラン(Camille Desmoulins)、アントワーヌ・ラヴォアジエ(Antoine Lavoisier)、マクシミリアン・ロベスピエール、ルイ・ド・サン=ジュスト(Louis de Saint-Just)がここで処刑されました。最後の処刑は、1795年5月にコンコルド広場で行われた、プラリアル暴動(Prairial riot)の参加者たちに対する処刑です。