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天壇 地図


 天壇(てんだん、中国簡体字:天坛、繁体字:天壇、ピンイン:Tiāntán)は、北京中心部の南東部に位置する中国皇帝の宗教建築群です。明朝と清朝の皇帝は、豊作を祈願する毎年の儀式のためにこの施設を訪れました。天壇は、「天壇:北京の皇帝の廟壇」の名称で 1998年に世界遺産(文化遺産)に登録され、「世界最大の文明の一つの発展にとって非常に重要な宇宙論を簡潔かつ図解的に表現した建築と景観デザインの傑作」と評され、「天壇の象徴的な配置とデザインは、何世紀にもわたって極東の建築と計画に大きな影響を与えた」とされています。
 この寺院群は、北京の中心にある紫禁城の建設も手掛けた明朝の永楽帝の治世中の 1406年から 1420年にかけて建設されました。「北京の九壇八廟」の一つに数えられる重要な祭祀施設でした。現在は中国北京市東城区にあります。16世紀の嘉靖帝(明の第12代皇帝、正徳2年8月10日(1507年9月16日)生~嘉靖45年12月14日(1567年1月23日)没、在位:正徳16年4月22日(1521年5月27日)~嘉靖45年12月14日(1567年1月23日))の治世中に、この寺院群は拡張され、天壇と改名されました。嘉靖帝は北京に、東に日壇、北に地壇、西に月壇という3つの有名な寺院を建てた事でも知られています。天壇は 18世紀、乾隆帝(清の第6代皇帝、康熙50年8月13日(1711年9月25日)生~嘉慶4年1月3日(1799年2月7日)没、在位:雍正13年8月23日(1735年10月8日)~乾隆60年12月30日(1796年2月8日))の治世に改修されました。当時は国家予算が不足していたため、これが帝政時代の寺院群の最後の大規模改修となりました。
 第二次アヘン戦争(アロー戦争、1856年~1860年、清とイギリス・フランス連合軍との戦争)中、この天壇は英仏同盟に占領されました。1900年、義和団の乱中、八カ国連合軍がこの寺院群を占領し、1年間北京の臨時司令部としました。清朝の崩壊とともに、天壇の寺院群は管理されなくなり、寺院群が放置されたため、その後数年間でいくつかの堂が倒壊しました。
 1914年、当時の中華民国総統であっ​​た袁世凱は、自らを中国皇帝と宣言する努力の一環として、天壇において明時代の様式に倣った祈祷式を行いました。1918年、寺院は公園に変わり、初めて一般公開されました。
 
 なお北京の九壇八廟とは、北京に 17箇所あった重要な皇帝の祭祀場所です。九壇は正式には「京城九壇」、八廟は「京華八廟」と呼ばれていました。九壇は、「天壇(圜丘壇、現在の天壇公園南部)」「祈穀壇(現在の天壇公園北部)」「地壇(方澤壇、安定門外の北東)」「日壇(朝日壇、朝陽門外)」「月壇(阜成門外)」「先農壇(永定門内の北西、現在の天壇公園西南)」「太歲壇(現在の先農壇の敷地内部)」「先蠶壇(現在の北海公園)」「社稷壇(天安門北西、現在の中山公園)」です。八廟は、「太廟(現在の北京市労働人民文化宮)」「奉先殿(故宮内部)」「傳心殿(故宮内部)」「壽皇殿(現在の景山公園)」「雍和宮」「堂子(清朝・愛新覚羅家のシャーマニズム祭祀場所)」「文廟(別名:北京孔廟、雍和宮の西側)」「歴代帝王廟」です。
 
天壇写真
天壇
 
天壇地図(Map of Temple of Heaven, Beijing, China)
天壇地図
地図サイズ:640ピクセル X 520ピクセル
 
 
天壇 地図(Google Map)
 

 
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