アンボンの観光名所としては、アンボン大聖堂(Cathedral of Ambon)、ビクトリア要塞(Fort Victoria)、メラ・プティ橋(Merah Putih Bridge、斜張橋)、アンボン・プラザ(Ambon Plaza)、リアン・ビーチ(Liang Beach)、ナトセパ・ビーチ(ナツェパ・ビーチ、Natsepa Beach)、サンタイ・ビーチ・リゾート(Santai Beach Resort)、ピントゥ・コタ・ビーチ(Pintu Kota Beach)などがあります。
インドネシアにおけるアンボンの位置が判る地図(Map of Ambon City, Ambon Island, Maluku Islands, Indonesia)
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アンボン 歴史
「アンボン(Ambon)」という名称の由来を特定するのは容易ではありません。地元の伝承によれば、この言葉は「霧」や「露」を意味する「エンブン(embun)」という語に由来するとされています。アンボン島の山頂は、しばしば深い霧に覆われています。「ラハ(Laha)」という名称も、かつてはこの入植地の前身となった「ノッサ・セニョーラ・ダ・アヌンシアダ要塞(Fort of Nossa Senhora da Anunciada)」を指す言葉として使われていました。現地語において、「ラハ」は「港」と訳されます。
現在、「アンボン」という言葉はアンボン市、アンボン島、あるいはアンボン人を指しますが、歴史を通じて(特に 20世紀には)、この言葉は中部マルク地域の住民を指すものです。「アンボン人(Ambonezen)」という表現自体も中部マルク地域の住民を指す言葉でしたが、元来はメスティーソ(混血)文化を持つアンボン市の住民に対してのみ使われていたものです。
アンボン市は、1513年のポルトガル人の到来を機に発展し始めました。その後、1575年頃、ポルトガル当局は現地住民を動員し、ホニポプ平原に「コタ・ラハ要塞(フェランギ要塞とも呼ばれる)」を建設しました。この要塞は当初「ノッサ・セニョーラ・ダ・アヌンシアダ」と名付けられていました。建設の過程で、労働者たちは「ソヤ(Soya)」のような村落的な組織を形成し、それがアンボン市の基礎となりました。というのも、その後の発展の中で、これらの集団が組織化された地域的かつ血縁的な社会へと進化していったからです。
オランダがポルトガルからマルク諸島、特にアンボンを奪取した後、1605年にノッサ・セニョーラ・ダ・アヌンシアダ要塞も占領され、「ビクトリア(Victoria)」と改称されて植民地行政の中心地となりました。甚大な被害をもたらした大地震の後、要塞は改修されて「ニュー・ビクトリア(Nieuw Victoria)」と改名されましましたが、地元の人々の間では依然として「ビクトリア要塞」の名で親しまれていました。この要塞は、1817年12月16日に国民的英雄であるパッティムラが絞首刑に処された場所として、歴史的に重要な意味を持っています。
アンボン島は、テルナテ、ルフ、ヒトゥ、ゴワからの軍事支援を受けたオランダ東インド会社(VOC)によって、1605年2月23日に征服されました。VOC(オランダ東インド会社)の初期には、数名の総督が統治を行いました。その中には、強制労働を用いてヴィクトリア要塞を拡張した強権的なアドリアン・マルテンス・ブロックや、香辛料貿易の独占を通じて住民を抑圧したヘルマン・ファン・スペルトなどが含まれます。
1796年2月17日、VOCはイギリスのピーター・ラミエ提督に降伏し、アンボンは 1803年までイギリス領となりました。その後、統治権はオランダ政府(1799年に破綻したVOCではなく)に返還されました。オランダ領東インド時代にはアンボンの近代化が進められ、ヴィクトリア要塞は 1817年に設置されたモルッカ政府(Government der Molukken)の一部であるアンボン政府(Government of Amboina)の拠点となりました。1921年9月7日、アンボンの住民は植民地政府に対して平等な権利を認められました。これは現地の人々による闘争の政治的勝利であり、彼らが統治に関与する道を開くものです。
1942年2月1日、日本軍がアンボンに上陸しました。日本軍はアンボンの戦いでオランダ軍とその同盟軍を破り、海軍および航空の戦略的拠点であった同市を占領しました。占領期間中、市民は戦争による貧困や飢餓に苦しみました。連合国軍兵士のためのアンボン戦没者墓地や、アンボン湾の海底で発見された日本の魚雷など、この時代の名残は今日でも見ることができます。
アンボン市の市制記念日は、公式に 1575年9月7日と定められています。この日付は、パッティムラ大学が関与した 1972年のセミナーにおいて決定されました。1575年という年はコタ・ラハ要塞(Fort Kota Laha)の建設開始を記念するものであり、9月7日という日付は、1921年にアンボンの市民が平等な政治的権利を獲得した日を称えるものです。同市の記念日が初めて祝われたのは、1973年9月7日のことです。