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イキケ


 イキケ(スペイン語:Iquique, Chile)は、チリ共和国北部のタラパカ州にある港湾都市およびコミューン(基礎自治体)であり、タラパカ州の州都となっている街です。アタカマ砂漠の一部であるパンパ・デル・タマルガルの西、太平洋沿岸に位置します。2017年の国勢調査によると、人口は 191,468人、タラパカ州の最大都市、チリ国内では 14番目に人口の多い街です。また、大イキケ地域の主要コミューンでもあります。この都市は、19世紀のアタカマ砂漠における硝石採掘の全盛期に発展しました。イキケから東へ約 50キロメートルのかつては硝石工場で栄えたゴーストタウン「ハンバーストーン」「サンタ・ラウラ」は「ハンバーストーンとサンタ・ラウラの硝石工場群(Humberstone and Santa Laura Saltpeter Works)」の名称でユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録(2005年)されています。
 かつてはチリ人の人口が多いペルーの都市でしたが、19世紀後半の太平洋戦争(War of the Pacific、1879年~1884年、別名:硝石戦争)でチリに征服されました。今日では、チリ最南部のマガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ州にあるプンタアレナスと並んで、チリで 2つしかない自由港のうちの 1つです。
 
イキケ イメージ(スラヴァ広場(Slava Square))
イキケ
 
 イキケの観光名所としては、アルトゥロ・プラト広場(Plaza Arturo Prat)、5月21日広場(21-May Square)、スラヴァ広場(Slava Square)、エメラルド・コルベット艦&博物館(Museo Corbeta Esmeralda、軍用帆船)、イキケ地域博物館(Museo Regional)、無原罪の御宿り大聖堂(Immaculate Conception Cathedral)、バケダーノ大通り(Baquedano Boulevard)、イキケ市立劇場(Iquique Municipal Theatre)、プラヤ・カバンチャ(ビーチ、Playa Cavancha)、プラヤ・エル・コロラド(Playa El Colorado)、ブラヴァ・ビーチ(Playa Brava)、ウアイクイケ・ビーチ(Playa Huaiquique)、タラパカ大学(Universidad de Tarapaca)、サント・トマス大学(Santo Tomas University)などがあります。
 
 イキケのホテルとしては、イビス バジェット イキケ、ホテル ガヴィナ センス&カンファレンス センター、イビス イキケ、ホスタル イーダ、ホリデーイン エクスプレス イキケ、ホテル イキケ、アンディナ ホステル イキケ、サンセット ビーチ、アーバノ イキケ、ホテル アナケナ、ホスタル イキケ、ホスタル イキケ レジデンシャル、ホテル ラス ドゥナス サービス アパートメント、ホテル キング イキケ、ホテル テッラド スイーツ イキケ、ホテル ペキンなどがあります。
 
チリにおけるイキケの場所が判る地図
イキケ地図
地図サイズ:320ピクセル X 640ピクセル
 
 この都市は 16世紀に築かれましましたが、紀元前 7000年頃にはチャンゴ族がこの地域に居住していたという証拠があります。植民地時代、イキケは当時の南米の大部分と同様にペルー副王領の一部であり、19世紀末までペルー領でした。イキケの初期の発展は、主に鉱物資源の発見、特にアタカマ砂漠(当時ペルー領の一部)に埋蔵されていた硝酸ナトリウムの大規模な鉱床とグアノの発見によるものです。
 1835年7月、チャールズ・ダーウィンがビーグル号の航海中にイキケを訪れ、この町を「水や薪といった生活必需品が非常に不足している」と描写しました。これらの必需品は、かなり遠くから運ばれなければなりませんでした。この時、ダーウィンは硝石工場も訪れました。
 この都市は、1868年のアリカ地震、1877年のイキケ地震、2005年のタラパカ地震など、幾度もの地震によって壊滅的な被害を受けました。2014年のイキケ地震は、2014年4月1日にマグニチュード8.2で発生しました。
 ボリビアとチリの領土紛争は、1879年に太平洋戦争の引き金となりました。1879年5月21日、イキケ港で行われたイキケの戦いは、現在ではチリの毎年恒例の祝日である海軍記念日として記念されています。この戦争の結果、ペルー領土であったこの地域はチリに割譲されました。
 長年にわたり、ノルテ・グランデと呼ばれていたこの地域には、チリの他の地域から多くの移民が流入しました。その後、チリ産硝石のさらなる輸出(主にヨーロッパ諸国への輸出)が、外国人の誘致と住宅開発の急速な拡大につながり、都市の発展に大きく貢献しました。
 1907年12月、サンタ・マリア・デ・イキケ虐殺事件が起こり、街は汚名を着せられました。ロベルト・シルバ・レナード将軍率いるチリ軍が、サンタ・マリア学校に集まっていた数千人の硝石鉱夫とその妻子に発砲したのです。労働者たちは労働条件と賃金に抗議するため町へデモ行進していました。500人から 2,000人が殺害されました。フォークグループ「キラパユン」は 1970年にこの事件を記念したアルバム「カンタータ・サンタ・マリア・デ・イキケ」を録音しました。2007年12月には、虐殺から 100周年を記念して、12月14日から 21日までの 1週間を最高潮とする一連の文化・儀式行事が計画されました。
 マルス96号(Mars 96)は 1996年にロシアによって打ち上げられましましたが、地球周回軌道を離脱できず、数時間後に大気圏に再突入しました。搭載されていた 2基のRTG(原子力電池の一種である放射性同位体熱電気転換器、放射性崩壊から電力を取り出す発電機)は合計 200グラムのプルトニウムを搭載しており、設計通り大気圏再突入を生き延びたと推定されています。現在、RTGはチリのイキケの東 32キロメートル(20マイル)を中心とする、長さ 320キロメートル(199マイル)、幅80キロメートル(50マイル)の北東から南西に走る楕円形内のどこかにあると考えられています。
 チリ領となる以前、イキケにはペルーの偉大な英雄たちが数多く住んでいました。アルフォンソ・ウガルテ(1876年に市長に選出)、裕福な硝石事業家ラモン・サバラなどです。ギジェルモ・ビリングハーストは後にペルー大統領となり(1914年に退任した後、当時すでにチリ領となっていたイキケに移り晩年を過ごした)、ラモン・カスティーリャはペルー大統領を 3度務め、サン・ロレンソ・デ・タラパカで生まれ、タラパカ州ティビリチェ砂漠で亡くなりました。カスティーリャは 1825年にタラパカ知事としての任期中イキケに住んでいました。
 
 イキケへの交通アクセスは、飛行機ではディエゴ・アラセナ国際空港(Diego Aracena International Airport)、都市間バス(長距離バス)ではイキケ・バスターミナル(Terminal de Buses)があります。空港は、市街地から南に 48キロメートル(30マイル)の太平洋沿岸に位置しています。
 南アメリカ諸国からは、ボリビアのサンタ・クルスからイキケまで飛行機で 1時間40分(直行便、1便/週)です。
 チリの首都サンティアゴからイキケまで飛行機で 2時間10分(直行便、10~14便/日)、車で 20時間10分(北へ道なりで 1,760km)、ラ・セレナから飛行機で 1時間40分(直行便、1~2便/日)、車で 14時間40分(北北東へ道なりで 1,290km)、アントファガスタから飛行機で 50分(直行便、4便/週)、車で 5時間30分(北へ道なりで 420km)、コンセプシオンから飛行機で 2時間45分(直行便、4便/週)です。イキケからアリカまで車で 3時間55分(北へ道なりで 315km)です。イキケからチリ・ボリビア国境を越えてボリビアのオルロまで車で 6時間10分(北東へ道なりで 480km)です。
 
イキケ地図(Google Map)
 

 
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