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サン・ルイ島地図
ランベール館地図
ランベール館(フランス語:Hôtel Lambert)は、フランス の首都パリ 4区 のサン・ルイ島 の東端にあるアンジュー河岸に 17世紀中ごろの1640年から 1644年の間に建てられた、豪華な邸宅タウンハウスです。「パリのセーヌ河岸 (Paris, Banks of the Seine)」の構成要素の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録(1991年)されています。19世紀には、オテル・ランベールという名前は、この邸宅を購入したアダム・イェジ チャルトリスキ公爵(Adam Jerzy Czartoryski、1770年1月14日生~1861年7月15日没、ポーランドの貴族・政治家、ロシア帝国宰相を務めるも、1830年のロシアからのポーランド独立を目指した「十一月蜂起」の敗北後、1万人のポーランド人とともにパリに亡命)と関係のあるポーランド亡命者の政治派閥を指すようになりました。
パリ中心部のサン・ルイ島の先端の不規則な敷地に建てられたこの邸宅は、建築家ルイ・ル・ヴォー(Louis Le Vau)によって設計されました。この建物は 1640年から 1644年の間に建てられ、もともとは金融家のジャン=バティスト・ランベール(Jean-Baptiste Lambert、1644年没)のために建てられ、その後、彼の弟で後に商工会議所の会長となったニコラ・ランベール(Nicolas Lambert)に引き継がれました。ニコラ・ランベールのために、シャルル・ル・ブラン、フランソワ・ペリエ、ウスタシュ・ル・シュールが内装を装飾し、フランスの 17世紀半ばの住宅建築と装飾絵画の中でも最も優れた、最も革新的で、図像的に一貫性のある建築例の 1つと評価されています。
入り口は中央の広場の中庭に面しており、その周りに館が建てられています。後方右側には翼棟が伸びており、壁で囲まれた庭園を囲んでいます。同じ頃、ルイ・ル・ヴォーはランベール館の隣に自らの邸宅を建設しました。彼は 1642年から 1650年までそこで暮らしました。そこで彼の子供たちは全員生まれ、母親が亡くなりました。1670年に建築家自身が亡くなった後、彼の館は、もう一つの邸宅も所有していたラ・エー家によって購入されました。その後、両方の建物が結合され、ファサードが組み合わされました。
画家達はほぼ5年間、内部の装飾に取り組み、ル・ブランの壮大なエルキュールの間(現在も残っていますが、後述する2013年の火災で大きな被害を受けました)の勇ましい寓意画や、王室コレクション(現在はルーブル美術館 )のために購入されたル・シュールのキャンバス5点からなる小さなミューズの部屋(現在はルーブル美術館に所蔵)や、それ以前のアンサンブルである愛の部屋(当時の慣習に従って、元々の構成では天蓋付きのベッドのための床の間があり、その上で家の女主人が客を迎えていました)を制作しました。注目すべきことに、床の間は 1703年頃に廃止されました。すべてのアンサンブルは愛と結婚をテーマにしていました。しかし、その後絵画は散逸しました。
1740年代、シャトレ侯爵夫人とその恋人であるヴォルテールは、シレーにある彼女の田舎の邸宅にいないときは、パリの住居としてランベール邸を使用していました。侯爵夫人はそこのサロンで有名でした。その後、シャトレ侯爵はランベールをクロード・デュパンとその妻ルイーズ・マリー・デュパンに売却し、サロンの伝統を引き継ぎました。デュパン家は作家ジョルジュ・サンドの先祖で、サンドはポーランドの作曲家ショパンとの関係から、この地所の 19世紀のポーランド人所有者の頻繁な客でもありました。
ランベール館地図(Map of Hôtel Lambert, Île Saint-Louis, Île-de-France, France)
地図サイズ:640ピクセル X 480ピクセル
ランベール館への最寄り交通機関は、パリ・メトロ(地下鉄)7号線 シュリー=モルラン地下鉄駅(Sully - Morland)、バスでは 86/87番 ポン・シュリー=キー・デ・ベテューヌ バス停(Pont Sully - Quai de Béthune)があります。
ランベール館地図(Google Map)
住所:2 サン=ルイ・アン・リル通り, 75004 パリ, フランス
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