明洞大聖堂(明洞聖堂、ミョンドン せいどう、ハングル表記:명동성당(ミョンドンソンダン)、英語:Myeongdong Cathedral)は、韓国の首都ソウル特別市中区明洞地区にあるカトリックのソウル大司教区司教座聖堂です。聖母マリア無原罪の御宿りに捧げられた聖堂で、正式名称は「聖母マリア無原罪の御宿り明洞大聖堂(ハングル表記:천주교 서울대교구 주교좌 명동대성당、英語:Cathedral Church of Our Lady of the Immaculate Conception、ラテン語:Ecclesia Cathedralis Nostrae Dominae Immaculatae Conceptionis)」となっています。明洞大聖堂は、ソウル大司教区の国立大聖堂です。ソウル大司教ピーター・チョン・スンテク氏の本拠地です。
この聖堂は、1841年に教皇グレゴリウス 16世が発布した法王勅令により韓国の主たる守護聖人として崇められた無原罪懐胎の聖母マリアに捧げられています。1892年に第26代朝鮮王 高宗(李氏朝鮮最後の王、在位:朝鮮王として 1863年12月13日~1897年10月12日、大韓皇帝として 1897年10月12日~1907年7月20日)臨席のもと起工式が行われ、1898年5月に聖堂(朝鮮初のレンガ造りの教会)が完成し、同年5月29日に献堂式が挙行されました。創設当初は「鐘峴聖堂」と呼ばれていましたが、1945年に日本が第二次世界大戦に敗れ、朝鮮独立を機に現在の「明洞聖堂」という名称に改名されました。この大聖堂は、地域のランドマーク、観光名所、そして韓国のカトリック教会の有名なシンボルとして機能しています。韓国政府は、1977年11月22日にこの大聖堂を史跡(第 258号)に指定しました。
ソウル 明洞大聖堂地図(Map of Myeongdong Cathedral, Seoul, South Korea)
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明洞大聖堂 歴史
朝鮮時代、キリスト教は激しい弾圧を受けました。しかし、その平等主義的な価値観に惹かれた実学(シルハク)派の人々を中心に、学問的な関心事として注目が集まるようになりました。19世紀に入ると、フランス人宣教師の活動によってカトリック信仰が広まりましましたが、彼らへの弾圧がきっかけとなり、1866年にはフランスによる朝鮮遠征(丙寅洋擾)が引き起こされました。
1882年に朝鮮王朝が米国と通商条約を締結した後、朝鮮の使徒座代理区長であったパリ外国宣教会のマリー・ジャン・ギュスターヴ・ブラン(Marie-Jean-Gustave Blanc)は、宣教拠点を建設するための土地を求めました。彼は「鐘峴(チョンヒョン/鐘の丘)」と呼ばれる場所の空き地を「金加弥路(キム・ガミロ)」という名義で購入しました。この地は儒教の聖堂(文廟)に近かったため、朝鮮の人々はそれまで建物を建てることを避けていた場所です。学校が建設され、1887年に朝鮮とフランスの間で修好通商条約が結ばれると、フランス人司祭ウジェーヌ・ジャン・ジョルジュ・コスト(Eugène Jean George Coste)の監督下で教会の建設が計画されました。この敷地には朝鮮初の教区が設置され、約 60室を備えた神学生養成施設が建設されました。この施設は、当該地域を北京教区から分離・独立させるよう教皇レオ13世を説得するための材料としても提示されました。
当初、朝鮮の高宗皇帝は大聖堂の建設に反対し、1887年には土地を没収すると脅しました。1888年4月28日、高宗は通商担当大臣の趙秉式(チョ・ビョンシク)に命じ、米国、ロシア、イタリアの各国政府に対して大聖堂への資金提供を停止するよう圧力をかけさせました。また、建設の遅延を狙って金貨の流通を制限する布告も出しました。高宗がこうした動きを支持した背景には、自身の宮殿よりも高い建物が建設されることへの不快感もあったと伝えられています。
それにもかかわらず、高宗はやがてキリスト教の大聖堂を擁することの意義を理解するようになり、1892年8月5日に定礎式を行うことを容認しました。建設費は約 6万米ドルで、パリ外国宣教会の支援を受けて賄われました。しかし、日清戦争の勃発と、それに続く代理司教ウジェーヌ・ジャン・ジョルジュ・コストの死去により、大聖堂の開堂は数年間延期されました。1898年5月29日、ついに「聖母の無原罪の御宿り」に捧げる献堂式と聖別式が執り行われ、鍾峴(チョンヒョン)大聖堂として開堂しました。建設当時、この建物はソウルで最大の規模を誇るものです。
1900年には、1866年の迫害で殉教した韓国の殉教者たちの遺骸が、龍山(ヨンサン)区の神学校から大聖堂の地下聖堂(クリプト)へと移されました。1924年にはパイプオルガンが設置されましましたが、朝鮮戦争の混乱の中で略奪され、後に破壊されてしまいました。
1977年11月22日、韓国政府はこの大聖堂を史跡第258号に指定し、国の重要な文化財および資産として認定しました。
1970年代から 1980年代にかけて、カトリック聖職者は韓国の軍事政権に対する主要な批判者の一翼を担っていました。明洞(ミョンドン)聖堂は、「民衆(ミンジュン)」運動による政治的・労働的な抗議活動の拠点となると同時に、抗議者たちの避難場所(サンクチュアリ)ともなりました。実際、この聖堂は民主化運動家たちの「メッカ」とさえ呼ばれていました。1976年には、後に大統領となるカトリック信徒の金大中(キム・デジュン)が朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の退陣を求めてこの聖堂で集会を開きました。また 1987年には、大学生の朴鍾哲(パク・ジョンチョル)が拷問の末に死亡した事件を受け、学生を中心とする約 600人の抗議者が聖堂内でハンガーストライキを行いました。
政府がかつて教会敷地内での抗議者逮捕を避ける傾向にあったことから、現在でもこの大聖堂は抗議者たちにとって人気の場所となっています。2000年には、通信関連の労働組合による抗議活動の際、女性信徒への暴行や教会施設の器物損壊が発生したことを受け、聖堂側は事前の承認を得ていない抗議者の立ち入りを公式に禁止する措置を講じました。
日曜日の午前中には外国人向けのミサが行われていますが、その他の典礼はすべて韓国語で行われています。